ALFONS MARIA MUCHA〔アルフォンス・マリア・ミュシャ〕
Alfons Maria Mucha〔アルフォンス・マリア・ミュシャ〕
1860年7月24日~1939年7月14日
一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヨーロッパを中心に大流行した美術運動
「アール・ヌーボー」の代表格として知られるミュシャ。
現在も人々を魅了してやまない作家です。
ミュシャは現在のチェコ共和国南モラヴィア地方にあるイヴァンチッツェに生まれ、
13歳ごろには雑誌の表紙を描く仕事を始めます。
その後19歳でウィーンに移り、舞台美術工房で働き始めるのですが、
その3年後には劇場が火事に。
仕事を失ったミュシャはウィーンからミクロフに移ると、
クーエン・べラン伯爵と出会います。
彼の援助を受けてミュンヘンの美術アカデミーで学び、
その後パリでも学びを深めていきます。
ミュシャは30歳近くまで画家として生活が苦しい日々が続きますが、
94年に転機が訪れます。
ミュシャの出世作「ジスモンダ」
当時の大女優サラ・ベルナールが主演する
「ジスモンダ」のポスターを制作し、これが大好評。
翌年にはサラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結びました。
ここから彼の黄金時代となるのです。
ミュシャは商業用ポスターで評判を得ると、
装飾パネルの仕事にとりかかります。
これはポスターと違い、宣伝用の文字要素を取り除いたもので、
装飾用や鑑賞用に利用されることになりました。
1896年、シャンプノワの依頼による連作「四季」が装飾パネルの最初の作品となります。
このころ代表作の1つである「JOB」も制作されます。
こちらは当時タバコ用の巻紙を販売していたJOB社の依頼による広告作品です。
当時の煙草や葉巻は紳士たちの必須アイテムで、
男性ものというイメージが強くありました。
そのため、美しい女性が紫煙をくゆらせるこのセンセーショナルな作品は
大きな話題を呼びました。
その後、この女性のように優雅に煙草を嗜むパリジェンヌが増え、
Job社の煙草の売り上げに貢献したそうです。
ミュシャの作品の特徴としては、
上下には文字、中央には季節や宝石、花など
様々な概念を女性の姿で表現。
その頭部や背後にはアーチ状の窓が描かれ、
幾何学的アラベスク模様と女性の美しい髪が描かれるのが、
基本的なスタイルとされています。
そして、ミュシャは自身の利益よりも「多くの人に親しんでもらいたい」
と、自身の作品をリトグラフで作り続けたことでも知られています。
1910年には自身の祖国に戻り、プラハで20枚の大連作「スラヴ叙事詩」の制作を開始。
祖国の人に役立ちたいと、チェコおよびスラヴ民族の伝承とスラヴ神話の歴史を大きなキャンバスに描きました。
ミュシャ スラヴ叙事詩 原故郷のスラヴ民族
晩年は、無償でチェコの紙幣や国章をデザインしたこと等により
「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由でナチスドイツに逮捕され、
それが負担となり78歳の時に亡くなりました。
「 ミュシャは少女漫画みたいな絵を描く人だ。」
なんてイメージを持たれている方もいます。
当時のフランスではジャポニズムと呼ばれた日本文化が流行っていました。
その中、人気ギャラリーのサミュエル・ビングは
雑誌「LE JAPON RTISTIQUE(日本の芸術)」を出版します。
これは当時のアーティストたちに大きな衝撃を与え、影響を与えました。
ガレをはじめ、様々な作品で雑誌に掲載された作品が流用されています。
ミュシャも少なからず影響をうけているのでしょう。
太い輪郭線、平面的な塗りなどから
日本美術っぽい印象を受ける方も少なくありません。
ミュシャの日本への影響
アール・ヌーヴォー様式が頂点だった1900年にパリ万博が開催されます。
当時は日本の留学生も多く訪れており、
芸術家の浅井忠はミュシャのポスター持ち帰り紹介しました。
その後、ミュシャは瞬く間に日本でブームとなり、
与謝野晶子の「みだれ髪」など、
ミュシャをまねたポスターや表紙が数多く制作されました。
日本芸術に影響を受けたミュシャの作品が
日本人にとって受け入れやすいものだったのでしょう。
ミュシャの作品は コチラ